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庚申信仰の歴史

中国渡来、なんでもありの不思議な神様

百体庚申

 木沢と小道木をむすぶ峠に、「百体庚申」と呼ばれるものがあります。杉林のなかに、「庚申」と刻まれたくさんの石が並んでいるのです。
 石碑はどれも遠山川の石で作られたものといい、風化に耐えて残された銘文からは、明治二十九年の年号が読み取れます。
 百体庚申の由来については、二通りの言い伝えがあります。一つは、昔、近くの熊野神社の霜月祭りの夜、急に星空がかきくもって大風が吹いたため、これは何かの災いであろうと、村人が悪霊の進入を防ぐ「道切り」のために祀ったというもの。
 もう一つは、明治年間に伝染病が流行したとき、たまりかねた村人たちが、これ以上里へ病気が入らないことを願って立てたというものです。
 どちらの言い伝えでも、庚申様は外からの災いを遮る神として信仰されてきたようです。

 伝染病についていえば、確かに明治29年から31年にかけて、遠山谷では赤痢が大流行しました。

明治28年6月→患者443名、死者110名。
明治30年6月→患者329名、死者76名。
明治28年8月→患者453名、死者103名。

 当時の人口が約3000人だったことを考えると、総人口の約15%もの人が病に苦しんだことになります。
 伝染病の流行の背景には、洪水や凶作などもありましたが、その一方で外部から大量の移入者があったことも原因しました。たとえば、明治29年4月には王子製紙の労働者1500人が村内に移入しています。
 当時の遠山谷の人たちは、そうした外来の人々とともにやってくる「病魔」を封じるために、庚申様の力を頼ろうと考えたのでしょう。
 では、その庚申様とは一体どんな神様なのでしょうか。

百体庚申

庚申信仰の歴史

 昔の暦では、十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせた60通りを、それぞれの年や日にあてはめて占いに用いました。庚申(かのえさる)もその一つで、60日に一度巡ってきます。
 中国の道教の思想では、人間の体の中には「三尸(さんし)」という三匹の虫が棲んでいるとされていました。
  庚申の日の夜になると、眠っている間にこの虫が体から抜け出て天に昇り、その人間が犯した様々な罪を天帝(天を司る中国の最高神)に報告します。
 天帝に罪を報告されると、罰として寿命が縮められてしまうため、庚申の日には眠らないで三尸が体から抜け出さないよう見張っているという行事が広まりました。

 日本では、平安時代の初めから貴族の間で守庚申が流行となり、庚申の日には夜を徹して碁やすごろく、詩歌や舞楽などをして遊びました。
 平安時代末期から武士の間にも広がりました。
 南北朝・室町時代になると天台宗系の僧侶によって庚申信仰の仏教化が行われ、「青面金剛」という仏教の神が庚申の本尊であると説かれるようになりました。
 江戸時代になると、神道でも庚申の主神を猿田彦命であると説くようになり、修験者によって庚申信仰は一般民衆にまで広められました。その結果、全国でこれらの神仏を祭る「庚申講」が行われるようになり、その記念・供養のために庚申塔が建てられるようになったのです。
 石像や絵画に見られる青面金剛には、目が三つ、手が4本(6本、8本の場合もある)あり、多くの場合二羽の鶏と三匹の猿を従えています。
 鶏は夜が早く明けるようにとの願いであり、また申の次が酉であることにもちなむようです。
 三匹の猿は、いわゆる「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿です。これは庚「申」に通じるとともに、三尸の告げ口を封じる意味があります。
  また、庚申信仰を広めたのは天台宗であり、その本山である比叡山の守護神、山王権現の神使が猿であることも影響していると思われます。

庚申様と疫病

 では、そうした庚申様が、木沢ではなぜ道切りや赤痢除けのために祀られるようになったのでしょうか。これにはちゃんとした理由があります。

 『陀羅尼集経』という経典によれば、青面金剛は伝尸病(結核)を流行させる神であり、これを祭れば疫病から逃れられる、と書かれています。
  日本で作られた「庚申縁起」にも、青面金剛は帝釈天の使いで疫病を鎮める神として描かれています。
 また、江戸時代に入ると庚申信仰は猿田彦、すなわち道祖神と結びつきました。
  道祖神は旅人の道中を守る神であるとともに、悪霊の進入を防ぐために村境に祀られる「塞の神」でもあります。
 木沢の人々が悪霊退散や赤痢撲滅を願って百体庚申を建立したのも、こうした背景に基づいているのです。