遠山とは古くは信濃・遠江・三河・美濃にまたがる山岳地域の総称で、とくに美濃遠山庄(現在の岐阜県岩村町付近)のことを指しました。そのなかで、信州遠山は特に江儀遠山庄と呼ばれていました。江儀とは江儀山(現在の南アルプス池口岳のことという)にちなむもののようです。
鎌倉時代に遠山氏を名乗る豪族が信州にいたことは、諏訪大社の守矢家文書などから窺えますが、戦国時代に活躍した遠山一族の出自にはいくつかの伝説があり、真相は謎に包まれています。
遠山とは古くは信濃・遠江・三河・美濃にまたがる山岳地域の総称で、とくに美濃遠山庄(現在の岐阜県岩村町付近)のことを指しました。そのなかで、信州遠山は特に江儀遠山庄と呼ばれていました。江儀とは江儀山(現在の南アルプス池口岳のことという)にちなむもののようです。
鎌倉時代に遠山氏を名乗る豪族が信州にいたことは、諏訪大社の守矢家文書などから窺えますが、戦国時代に活躍した遠山一族の出自にはいくつかの伝説があり、真相は謎に包まれています。
梶原景時は鎌倉権五郎景政
(※注1)
の四代の孫で、鎌倉の梶原村に居を構えた武将です。信州遠山氏の本国が鎌倉であるという説は、地元の家系図などにも多く記されています。
また、鎌倉権五郎景政から16代の子孫で遠山蔵人という人物が、将軍への諌言が理由で信州遠山に流され、その子供が初代和田城主の遠山景広である、という伝承もあるようです(「伊那旧事記」)。

たとえば南北朝時代、大河原を拠点として活躍した宗良親王の協力者に遠山三郎という人物がいたとされていますが、彼と同姓同名の人物が美濃岩村城に住み、南朝方の新田氏の敗北を聞いて城を捨てて脱出したという記述が「太平記」に出ています(『大日本人名辞典』)。
一方で、加藤次景廉本人が源頼朝ら命を受けて信州遠山の逆賊を討伐し、その功績によってこの地を賜って住んだという伝承もあります(「伊那旧事記」)が、これはどうやら史実ではないようです。
家紋学の観点から判断すると、信州遠山氏の家紋である「丸二つ引両」は藤原氏利仁流のものであり、梶原の門流は使用しない紋なので、この点からも遠山景朝説が有力となっています。
遠山金四郎景元
(※注3)
は、天保の改革で取り潰されそうになった芝居小屋を救うなどの功績によって、のちに刺青姿の名奉行として時代劇のヒーローになりました。
彼は美濃遠山氏の一派、明知遠山氏の分家筋にあたります。信州遠山氏の家紋も、明知遠山氏の家紋も、「丸二つ引両」です。信州遠山氏の出自が美濃だとすれば、信州遠山と金さんとの関係が見えてきます。
その謎を探るために平成四年、村の有志によって遠山金四郎調査隊が結成され、同年9月に美濃遠山氏のゆかりの地を訪ねました。