もちろんこれらの測定年代は、埋没木の年輪の保存状態によって結果が異なります。
木の表皮が残っていない限り、その木がいつ埋没したかの正確な結果は得られません。
木によって年代の測定結果が異なるのはそのためですが、どうやらこの時代、少なくとも西暦710 年から間もない頃に、何らかの大災害がこの遠山谷に起こったことは確かなようです。
じつはちょうどその頃に、遠江を震源とする巨大地震が発生していたことが、朝廷の歴史書に記されています。
『続日本紀』によれば、霊亀元年5月25日(西暦715年、新暦7月14日)に、 「山崩れ天竜川を塞ぐ、数十日を経て決壊し、敷智、長下、石田の三郡、民家170余区を没し、あわせて苗を損ず」 とあります。
また『日本略記』にも同じ年に 「遠江の国で地震が起き、土砂が崩れて麁玉河(天竜川の古名)の水が堰き止められ流れなくなった」 と書かれています。
『扶桑略記』はこの災害を和銅7年(西暦714年)の出来事としていますが、記されている内容は他の史料と一致しています。
天竜川ほどの大河が数十日間も堰きとめられたというのですから、それを伝える地名や痕跡が流域に残されていそうなものですが、現在のところそれらしき資料は天竜川沿岸から発見されていません。
けれど、平成15年に遠山川で新たな発見がありました。新しく発掘された二つの埋没木の年輪を詳しく調べた結果、これらが埋没した時代が西暦714年と断定されたのです。
こうしたことから、いくつかの可能性が見えてきます。
ひとつめは、遠江地震の発生年については『続日本紀』などの715年説よりも、『扶桑略記』の714年説のほうが正しいのではないかということ。
もうひとつは、天竜川が堰きとめられたという記録は、その一支流である遠山川での災害が誤って伝えられたものではないかということです。
埋没林の調査にあたった伊那谷埋没木研究所の寺岡義治さんは、当時の遠山川災害の様子を次のように想像しています。
大崩壊から数十日が経った頃、大堰堤の決壊が始まり、現在の漆平島から大島にかけて巨石を交えた土石流が押し出し、下流域の遠江では突然の大洪水となり、田畑や民家の流失被害は都にも報じられました。
池口から遠山川に押し出す土砂は冬まで続き、堰き止められた川沿いの森林は水没しました。秋の台風には洪水によって上流から地震のときに崩れていたヒノキやケヤキ等の巨木が大量に流され、水没した森林の立木の至るところに堰をつくり、漆平島から大島にかけては押し出された土砂が徐々に嵩上げされて、広い扇状地を残しました。
水没してしばらくは、緑を残していた川沿いの森林は茶褐色に変わり、次の年の春を迎えても再び緑は戻らず、その後も池原に堆積した土砂は、塞がれていた沢水と友に崩れを繰り返しては、蛇抜けや大島など多くの地名を残しました。
歴史書に残された天竜川の災害とは、はたして本当に遠山川で起こったことだったのでしょうか。残念ながら、まだはっきりした結論は出ていません。
けれど、山深い遠山川の底から姿を現した埋没林が、都の歴史書の真偽を裏付けることになるなんて、何かロマンのようなものを感じませんか?